16年前の思い出
東日本大震災発生以来、私は1年余りで合計17回の被災地入りをしました。
思い起こせば、平成7年の阪神大震災の時。就職をして2年目です。
私は大手段ボールメーカー、セッツ株式会社つくば工場に勤務をしていました。そう、段ボール製簡易ベッドで協働しているセッツカートンの前身です。
忘れもしません。1月17日火曜日の早朝5時46分。独身寮の部屋で、いつものように目が覚めてテレビを付けました。
そしたら間もなく画面にテロップが。関西地方で大きな地震!震度5だか6だか表示していたと思います。
私は慌てて、その頃神戸に住んでいた親友に電話をかけたのです。
プルルーン☎
発生直後だったからか、電話は奇跡的に繋がりました。
☎ 私。”おーい、おはよう。すごく揺れたやろー!生きてるか~?”
と、いつものように面白半分に話しかけました。
ところが友人は、その時激震の直後で、命は別状なかったもののパニック状態の真っただ中だったのです。
☎ 友人。”何を言っている?これは冗談じゃないぞ。神戸が大変な事になった。窓の外も何ヶ所かで火の手が上がっているし部屋の中もぐちゃぐちゃだ”
私は、すぐにこれはただ事じゃないと理解しました。
火の手の上がった神戸市内
完全に倒壊した阪神高速道路
その後の神戸の惨状は御承知の通りです。
私は、今すぐにでも友人の元に駆けつけたかったのですが、金曜日の夜に神戸に向かう事にしました。
その日は、徹夜でクルマを運転して先ずは大阪の実家に向かい、あらかじめ両親にお願いしていた、水や食料や生活物資などを軽トラックに積み込み、神戸市に向かって出発しました。
震災発生から5日程経っていましたので、神戸までの幹線道路は緊急車両以外は封鎖。私は、普通に向かえば目的地にたたどり着けないと考え、ある妙案を実行したのです。
軽トラックに”八尾市役所 支援物資”と張り紙をして、湾岸沿いの幹線道路ではなく、大阪北部から六甲山を越えて行きました。
六甲山を下っていくと、途中から沿道の建物が倒壊し始めて、神戸市内に入るころには木造住宅は全壊か半壊。鉄筋コンクリートのビルも、無残に倒壊しているのです。まるで巨大なビルが膝まづいているようでした。
崩れた住宅
膝まづくビル
新開地駅では地下の駅に向かって道路が大きく陥没。
まさに辺りは、目を覆う地獄絵図。私は、涙をこらえる事ができません。
無事に友人の住むマンションに到着して、運んで行った支援物資のうちで必要な物を友人に渡した後、残りは近くの避難所になっている学校へ寄贈するつもりです。
当時友人は一人暮らしで、住んでいたマンションもひび割れなど被害はあったのですが、倒壊の恐れもなく住み続けると言う事でしたので、ライフラインの寸断された中、物資は大変助かったと喜んでくれました。
しかしこの後、大失敗しました。 友人宅を後にした私は、避難所の学校に到着。
避難していた人に物資があるのですが使ってもらえますか?と尋ねたら、その方はなんと大声で叫んだのです。
”おーい、みんなー!八尾市役所から支援物資が届いたぞー!”
しまった!((((((ノ゚⊿゚)ノ
”八尾市役所 支援物資”と書いた張り紙を取るのを忘れていたのです。
でも、皆さんには感謝してもらいましたので、一般車規制の被災地に無理やり入って行った事は、ここでお詫びしますので御勘弁ください!(^▽^;)
そして、その友人とは。。。
大学時代からの親友の中林君。
初めて石巻市や名取市に行った時に同行してくれた彼です。そして防災協定の件も彼のアドバイスでした。
また、当時勤めていたセッツの課長が、いま連携して防災協定をともに取り組んでいる、セッツカートンの西川常務です。
これも何かの因縁なんでしょうか?(^_^)v
ベッドの活動を誰よりも早く理解してくれたセッツカートンの西川常務
日本は災害大国
平成23年3月11日、日本は東日本大震災の発生により未曾有の被害を受け日本中が悲しみに包まれました。
南北500kmにも及ぶ海岸線を大津波が襲ったのです。過去にない甚大な被害。人々は大いに傷つきました。
でも長いスパンで考えてみたとき、今回の震災は本当に未曾有なのでしょうか?
実は、日本人が有史以来戦ってきたのは自然災害です。
大陸国家など多くの国では、隣国との争いの歴史でしたので隣国への恨みや憎しみがありましたが、我が国は海洋国家であり、他国との戦争は近代史の3つだけ。他国のように隣国を恨み憎むと言う事がなかったのです。
自然災害こそが私たち日本人の敵でした。
そして自然災害は、起こったとしても諦めるしかない。天は憎むに憎めないのです。この事で、日本人特有の、我慢強さや、秩序ある行動や、お互いに助け合うと言う世界に誇れる国民性になったのかも知れません。
自然の恵みと脅威
我が国、日本。
そこには、国土があり、地形があり、気候があり、風土があり、文化があり、歴史がある。
我が国は、四季を通し豊かな自然の恩恵を存分に受けてきたわけですが、それは厳しい災害とも背中合わせでした。
地震だけではなく、毎年襲ってくる風水害もそうです。
言わばそれは逃れることができない宿命のようなもの。
ですから今回の東日本大震災が発生しても、それに出来る限り対処して、次の災害に備えるために全力で取り組むことは、ごく当たり前の事なのです。
続く